DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

作家自身によるイスラエルでの村上春樹スピーチ日本語版

2009.4.15(水)
村上春樹自身によるイスラエルエルサレム賞受賞記念スピーチ日本語版が文藝春秋平成21年4月号に掲載された。
文藝春秋の作家へのインタビューによれば、このスピーチは通常とはことなり先ず日本語で作成された。
それを村上本の翻訳者ジェイ・ルービーン氏に英訳を依頼し、その英文に村上氏がいくらか手を入れて英語版つまりスピーチ原稿となったとある。

以下が作家自身によるエルサレム賞受賞記念スピーチ日本語版である。
掲載時は縦書きとなっている。

「壁と卵」(エルサレム賞受賞スピーチ)
私は一人の小説家として、ここエルサレム市にやって参
りました。言い換えるなら、上手な嘘をつくことを職業と
するものとして、ということであります。
もちろん嘘をつくのは小説家ばかりではありません。ご
存じのように政治家もしばしば嘘をつきます。外交官も軍
人も嘘をつきます。中古自動車のセールスマンも肉屋も建
築業者も嘘をつきます。しかし小説家のつく嘘が、彼らの
つく嘘と違う点は、嘘をつくことが道義的に非難されない
ところにあります。むしろ巧妙な大きな嘘をつけばつくは
ど、小説家は人々から賛辞を送られ、高い評価を受けるこ
とになります。なぜか?
小説家はうまい嘘をつくことによって、本当のように見
える虚構を創り出すことによって、真実を別の場所に引っ
張り出し、その姿に別の光をあてることができるからで
す。真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写すること
は多くの場合ほとんど不可能です。だからこそ我々は、真
実をおびき出して虚構の場所に移動させ、虚構のかたちに
置き換えることによって、真実の尻尾をつかまえようとす
るのです。しかしそのためにはまず真実のありかを、自ら
の中に明確にしておかなくてはなりません。それがうまい
嘘をつくための大事な資格になります。
しかし本日、私は嘘をつく予定はありません。できるだ
け正直になろうと努めます。私にも年に数日は嘘をつかな
い日がありますし、今日はたまたまその一日にあたりま
す。
正直に申し上げましょう。私はイスラエルに来て、この
エルサレム賞を受けることについて、「受賞を断った方が
良い」という忠告を少なからぎる人々から受け取りまし
た。もし来るなら本の不買運動を始めるという警告もあり
ました。その理由はもちろん、このたびのガザ地区におけ
る激しい戦闘にあります。これまでに千人を超える人々が
封鎖された都市の中で命を落としました。国連の発表によ
れば、その多くが子供や老人といった非武装の市民です。
私自身、受賞の知らせを受けて以来、何度も自らに問い
かけました。この時期にイスラエルを訪れ、文学賞を受け
取ることが果たして妥当な行為なのかと。それは紛争の一
方の当事者である、圧倒的に優位な軍事力を保持し、それ
を積極的に行使する国家を支持し、その方針を是認すると
いう印象を人々に与えるのではないかと。それはもちろん
私の好むところではありません。私はどのような戦争をも
認めないし、どのような国家をも支持しません。またもち
ろん、私の本が書店でポイコットされるのも、あえて求め
るところではありません。
しかし熟考したのちに、ここに来ることを私はあらため
て決意いたしました。そのひとつの理由は、あまりに多く
の人が「行くのはよした方がいい」と忠告してくれたから
です。小説家の多くがそうであるように、私は一種の「ヘ
そ曲がり」であるのかもしれません。「そこに行くな」「そ
れをやるな」と言われると、とくにそのように警告される
と、行ってみたり、やってみたくなるのが小説家というも
ののネイチャーなのです。なぜなら小説家というものは、
どれほどの逆風が吹いたとしても、自分の目で実際に見た
物事や、自分の手で実際に触った物事しか心からは信用で
きない種族だからです。
だからこそ私はここにいます。来ないことよりは、来る
ことを選んだのです。何も見ないよりは、何かを見ること
を選んだのです。何も言わずにいるよりは、皆さんに話し
かけることを選んだのです。
ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッ
セージです。これは私が小説を書くときに、常に頭の中に
留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけでは
ありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。
こういうことです。
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れ
る卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとして
も、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくな
いは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴
史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があ
れ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその
作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
さて、このメタファーはいったい何を意味するか? あ
る場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や自
燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼
かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファ
ーのひとつの意味です。
しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味
もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ
少なかれ、それ雀れにひとつの卵なのだと。かけがえのな
いひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだ
と。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみ
んな多かれ少なかれ、それ雀れにとっての硬い大きな壁に
直面しているのです。その壁は名前を持っています。それ
は「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は
我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれ
が独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。
冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。
私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。
個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるため
です。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められること
のないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それ
こそが物語の役日です。私はそう信じています。生と死の
物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさ
せ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのな
さを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕
事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けてい
るのです。
私の父は昨年の夏に九十歳で亡くなりました。彼は引退
した教師であり、パ■トタイムの仏教の僧侶でもありまし
た。大学院在学中に徴兵され、中国大陸の戦闘に参加しま
した。私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇
に向かって長く深い祈りを捧げておりました。 一度父に訊
いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦
地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方
と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈って
いるのだと。父が祈っている姿を後ろから見ていると、そ
こには常に死の影が漂っているように、私には感じられま
した。
父は亡くなり、その記憶も――それがどんな記憶であっ
たのか私にはわからないままに――消えてしまいました。
しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っ
ています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし
大事なものごとのひとつです。
私がここで皆さんに伝えたいことはひとつです。国籍や
人種や宗教を超えて、我々はみんな一人一人の人間です。
システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵で
す。我々にはとても勝ち日はないように見えます。壁はあ
まりに高く硬く、そして冷ややかです。もし我々に勝ち目
のようなものがあるとしたら、それは我々が自らの、そし
てお互いの魂のかけがえのなさを信じ、その温かみを寄せ
合わせることから生まれてくるものでしかありません。
考えてみてください。我々の一人一人には手に取ること
のできる、生きた魂があります。システムにはそれはあり
ません。システムに我々を利用させてはなりません。シス
テムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作
ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
私が皆さんに申し上げたいのはそれだけです。
エルサレム賞をいただき、感謝しています。私の本を読
んで下さる人々が、世界の多くの場所にいることに感謝し
ます。イスラエルの読者のみなさんにお礼を言いたいと思
います。なによりもあなたがたの力によって、私はここに
いるのです。私たちが何かを―とても意味のある何かを
共有することができたらと思います。ここに来て、皆さん
にお話しできたことを嬉しく思います。