Sentimental journey 4-1
2012.5.9(水)
御蔵島をヨットで再訪。
50年ぶりとなる。
順子のことを一言も書かないで来た。
昭和42年、1967年8月5日10時に竹芝桟橋より東海汽船で御蔵島に向かう。
途中、三宅島による。三宅島より2時間で御蔵島着。
このころは週に2回しか、御蔵島に行く船は無かった。
夏季は特別に週3便となる。
東海汽船の船から島へは、はしけが人を運ぶ。
当時の式根島でも同様であったが、遥かに危険度が高い。
海がまるで静かな様でうねりがある。
旅館はきよ屋へ泊まる。
この旅館は予約してあったのでまず行ってみると、
あまりにひどいので、もう一軒ある旅館に行ってみる。
似たり寄ったりで、いっぱいだったので、
やはりもとのきよ屋にする。
旅館は二軒とも普通の家。
歩く道の右側にも左側にも100mおきぐらいに蛇がとぐろを巻いていた。
東大の医学部が何人か同宿していた。
島の医療状況の調査のようであった。
回虫を貰う可能性が高いので、東京に帰ったら、虫下しを飲んだ方が
良いですよと教えてくれる。
御蔵島に6、7日と2拍し、8日に三宅島に移動。
昭和42年、1967年8月8、9、10日と三宅島坪田の旅館、椿荘に3泊。11日に式根島に移動。
昭和42年、1967年8月11、12、13、14日と式根島、式根館に3泊。
島ブームが起こるより遥か昔、大島より先の島に行く人などまるで無かったころの話だ。
二人とも学生であった。
御蔵島をヨットで再訪。
50年ぶりとなる。
順子のことを一言も書かないで来た。
昭和42年、1967年8月5日10時に竹芝桟橋より東海汽船で御蔵島に向かう。
途中、三宅島による。三宅島より2時間で御蔵島着。
このころは週に2回しか、御蔵島に行く船は無かった。
夏季は特別に週3便となる。
東海汽船の船から島へは、はしけが人を運ぶ。
当時の式根島でも同様であったが、遥かに危険度が高い。
海がまるで静かな様でうねりがある。
旅館はきよ屋へ泊まる。
この旅館は予約してあったのでまず行ってみると、
あまりにひどいので、もう一軒ある旅館に行ってみる。
似たり寄ったりで、いっぱいだったので、
やはりもとのきよ屋にする。
旅館は二軒とも普通の家。
歩く道の右側にも左側にも100mおきぐらいに蛇がとぐろを巻いていた。
東大の医学部が何人か同宿していた。
島の医療状況の調査のようであった。
回虫を貰う可能性が高いので、東京に帰ったら、虫下しを飲んだ方が
良いですよと教えてくれる。
御蔵島に6、7日と2拍し、8日に三宅島に移動。
昭和42年、1967年8月8、9、10日と三宅島坪田の旅館、椿荘に3泊。11日に式根島に移動。
昭和42年、1967年8月11、12、13、14日と式根島、式根館に3泊。
島ブームが起こるより遥か昔、大島より先の島に行く人などまるで無かったころの話だ。
二人とも学生であった。