DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

江戸時代、非常に栄えた港、江崎へ

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2014.6.25(木)
萩→江崎 23.7マイル
萩、浜崎商港の中でメインを揚げて、スタート6時20分。
江崎港にスターンアンカー槍着け完了10時55分。
薄日が差す。風、波とも殆ど無し。
霧が次第に濃くなって行く。
日本海というと厳しい海と思うが、静かな時は瀬戸内海より静穏だ。
平らな海面に微風でシワの様なものが出来る。
これは太平洋側は勿論、瀬戸内海でも無い。
さらに、油を流した様な海面となる。
日本海特優の現象だ。
本日は風も波も弱く、時々あぶらを流した様な海面となる。

江崎港は山に囲まれた細く長い水路を導標に従って入港する。
中は大きく広がっており、緑の山に囲まれている。
江戸時代、非常に栄えた交易港です。

と書きましたが、5年ぶりにぐるっと江崎の街を廻ってきましが、
江戸時代栄えたというのはホントかな。
富が見えません。かって栄えた商人の豪邸も無く、壮大な寺院もありません。
古い神社がありますが、広壮な構えではありません。
かって交易で栄えた街というより漁師まちの趣です。

5年前に来た時、インターネットで調べて
「【塚穴古墳】もあり古くから開けていた。律令制下 上田万、下田万がおかれた。江崎港は日本海の天然の良港として往古から阿武18郷の米の積み出し港として栄えた。日本海の北から北前船をあやつり西周りで産物を運ぶ西廻り航路の発達により長門国の玄関口として重要な拠点であった。江崎港よりの廻船として500石積1隻をふくむ4隻をもち、須佐、宇田、木与などの5浦の海防を担当していた。西廻りで萩・下関・瀬戸内航路も開けていた。石見からの米穀・半紙の積み出しも許可され、津和野藩の御米蔵も設けられていた。
廻船誘致のため芝居が許可され、月次の定市も設けられた。天保年間は諸国の商船の入港も頻繁になり、賑わいを極めていた」と会った為だ。

夕方、田万川温泉へ。25分。410円。
帰りに唯一の中型スーパー、きぬやに寄って、道を間違え帰り45分かかる。

江崎港に寄港するヨットマンへ、漁協に挨拶:
5年前に来た時は長い岸壁に漁船が2杯のみで寂しいくらいだった。
今回、漁船、工事船で10杯以上いる。
漁協の人が来て、今、岸壁と奥の2か所で工事が入っており、
工事船と漁船がこの岸壁を使っている。
ヨットを留めるのは構わないが、漁船から移動して欲しいと言われた時は
移動して欲しい。それと漁協にも顔を出して欲しいと言われる。
書類でもだすのかと漁協に行ってみると上司らしき人が出てきて、
同じ内容を口頭で伝えられただけで、書類とかは無し。
ヨットでの寄港を迷惑がる雰囲気は全くなかった。
工事が終わればその必要も無いかもしれないが、チョット漁協に挨拶を。

写真:
・江崎、橋のたもとに舫うECHO POINT
・江崎港入口の導標。これを一直線に見て入ります
・湾入口の景色
・田万川温泉。温浴施設ですね。
・江崎港18:36夕日が前の山のはに沈みます