熊野三所大神社と補陀洛山寺参拝
2016.5.21(土)
晴天。ヒヤッとした空気。やや寒いくらい。
朝食後、那智勝浦へ。コインランドリーで洗濯。
10時30分のバスで艇に戻る。
すぐ、後ろ舫いの調整に着手。
実はきのう、干潮時に後ろ舫いを長くした。
その後、食材を仕入れに行き、帰って、さっき調整した舫いを引いたところ、
付加した長さよりズット長くなっている。
これはナンダ。大潮の干潮時の作業で、何かに引っかかっていた舫いが正常に戻ったのだろうか。
不思議だ。今日の干潮は11時33分。再度干潮時に舫いの長さ調整。
昼食後、ひさしぶりに現地の歴史を尋ねる。
今いる那智は熊野本宮と那智の滝への出発点だ。
しかし、それだけではない。
熊野三所大神社:
駅の前、3分に「熊野三所大神社(まのさんしょおおみわやしろ)」が鎮座する。
境内には神木、樹齢800年の樟の巨木がある。
拝殿と本殿が一体となって居るようだ。
後ろにコンクリ作りの宝物殿らしき建物あり。
熊野詣が盛んだったころには、浜の宮王子とも渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、、
熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点となってた。
那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれている。
また、境内にわずかに残る渚の森は古代より歌に読まれた景勝の地であったらしい。
和歌山県神社庁の案内には
「当神社は、熊野権現三神、即ち夫須美大神、家津御子大神、速玉大神を祭神としている。
所有する古文書の中の明細帳(昭和初期の模写)によれば、村社大神社、祭神天照皇大神、配祀彦火火出見尊、大山祇命とあり、又由緒として、祭神寛文記に熊野三所権現とあり、又王子社ともいう。
『平家物語』の維盛の記述に「三の御山の参詣、事故なく遂げ給ひしかば、浜ノ宮と申し奉る王子の御前より一葉の船に棹さして万里の蒼海に浮び給ふとあるは當社なり、藻塩草當國の部に渚宮とあるは即ち當社なり、寛文記に當村を渚宮とあり、往昔神武天皇丹敷戸畔を誅し給ふ地なりと言ふ」と記されている。
明治6(1864)年、村社となる。
同40年4月1日、神饌幣帛料供進指定神社になる。
社殿創立については、明細帳に「上古祭場の遺跡につき、欽明天皇ノ御宇に社殿創立せしものなりと伝ふ」、『熊野年鑑』に「欽明天皇二十四(563)癸未年熊野浜ノ宮成」とあり、又、『熊野年代記』に「欽明天皇二十四(563)癸未年浜ノ宮宮殿出現」とある。
本社古伝に依れば「往古は唯祭壇のみ在り、社殿造立は前記時代を創始とす」とある。
社殿造営は、社宝の棟札によれば、慶安元(1648)年の再建と伝えられる。
其の後、享保19(1735)年に修復の棟札に、紀伊国主権中納言從三位源朝臣宗直監議奉行家達(水野大炊頭、安藤帶刀)とあり、那智山や浜ノ宮の他の建物と共に修復された。
『日本の美術誌』第225号(昭和60年2月発行)に、3神像の写真が掲載され、次の様な記事が載った。
「現在の社殿は慶安元(1647)年の再建と伝えるが、三間に分れて祀られている、祭神は彦火火出見命、大山祇命、天照大神と伝えており、その尊名は何らかの根拠によって近世付されたものであろうが、三体一具同作であり、熊野三所権現とみて間違いない、その形状から、巾子冠を戴く男神像は家津御子、宝冠像は速玉大神、女神像は夫須美神とみてよい」と述べられている。
昭和57年6月5日に国の重要文化財に指定され、昭和62年1月神社庁の認可により、中央神は夫須美神、右側神は家津美御子神、左側神は速玉神となり、神社名は大神社から熊野三所大神社と改名された。
(例祭)
2月13日の宵宮祭には深夜に、6人の射子奉仕者が裸で、社前200m余の海浜まで7度半馳足で往復して潮垢離を取って潔斎し、その夜は篭所に泊り、翌14日の例祭にはお弓行事を行う」
とある。
補陀洛山寺(ふだらくさんじ):
生きたまま浄土を目指して小船で海へ出ていった。
平安時代から千年に渡り、20名以上の上人が記録されたいる。
小船の原寸大の船が飾られている。渡海する上人は仏教徒だが、船の四方に赤い鳥居が設置されている。
神仏混合だったのだ。
那智勝浦町の解説によれば
「紀勢本線JR那智駅から国道を渡ったところに補陀洛山寺があり、渡海上人達をおまつりしております。
那智駅前面に広がる浜の宮海岸は、
平安時代からおよそ千年に渡って南海の果てにあると信じられていた観音浄土を目指して
渡海上人が、釘付けされた船の中に座り補陀落渡海に出発したところでもあります。
御本尊である千手観音は、平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。
千手は、あらゆる衆生を救済しようとする慈悲と力の広大さを表しています。ご尊顔や温雅な表情にも慈徳がうかがえます。
」とある。
写真:
・5時11分の朝日
・5時26分、朝日を受けて輝く那智の海岸。
神武天皇が上陸した浜との言い伝えがある。
・熊野三所大神社。
・拝殿、本殿一体?
・樹齢800年、樟の神木
・補陀洛山寺
・額
晴天。ヒヤッとした空気。やや寒いくらい。
朝食後、那智勝浦へ。コインランドリーで洗濯。
10時30分のバスで艇に戻る。
すぐ、後ろ舫いの調整に着手。
実はきのう、干潮時に後ろ舫いを長くした。
その後、食材を仕入れに行き、帰って、さっき調整した舫いを引いたところ、
付加した長さよりズット長くなっている。
これはナンダ。大潮の干潮時の作業で、何かに引っかかっていた舫いが正常に戻ったのだろうか。
不思議だ。今日の干潮は11時33分。再度干潮時に舫いの長さ調整。
昼食後、ひさしぶりに現地の歴史を尋ねる。
今いる那智は熊野本宮と那智の滝への出発点だ。
しかし、それだけではない。
熊野三所大神社:
駅の前、3分に「熊野三所大神社(まのさんしょおおみわやしろ)」が鎮座する。
境内には神木、樹齢800年の樟の巨木がある。
拝殿と本殿が一体となって居るようだ。
後ろにコンクリ作りの宝物殿らしき建物あり。
熊野詣が盛んだったころには、浜の宮王子とも渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、、
熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点となってた。
那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれている。
また、境内にわずかに残る渚の森は古代より歌に読まれた景勝の地であったらしい。
和歌山県神社庁の案内には
「当神社は、熊野権現三神、即ち夫須美大神、家津御子大神、速玉大神を祭神としている。
所有する古文書の中の明細帳(昭和初期の模写)によれば、村社大神社、祭神天照皇大神、配祀彦火火出見尊、大山祇命とあり、又由緒として、祭神寛文記に熊野三所権現とあり、又王子社ともいう。
『平家物語』の維盛の記述に「三の御山の参詣、事故なく遂げ給ひしかば、浜ノ宮と申し奉る王子の御前より一葉の船に棹さして万里の蒼海に浮び給ふとあるは當社なり、藻塩草當國の部に渚宮とあるは即ち當社なり、寛文記に當村を渚宮とあり、往昔神武天皇丹敷戸畔を誅し給ふ地なりと言ふ」と記されている。
明治6(1864)年、村社となる。
同40年4月1日、神饌幣帛料供進指定神社になる。
社殿創立については、明細帳に「上古祭場の遺跡につき、欽明天皇ノ御宇に社殿創立せしものなりと伝ふ」、『熊野年鑑』に「欽明天皇二十四(563)癸未年熊野浜ノ宮成」とあり、又、『熊野年代記』に「欽明天皇二十四(563)癸未年浜ノ宮宮殿出現」とある。
本社古伝に依れば「往古は唯祭壇のみ在り、社殿造立は前記時代を創始とす」とある。
社殿造営は、社宝の棟札によれば、慶安元(1648)年の再建と伝えられる。
其の後、享保19(1735)年に修復の棟札に、紀伊国主権中納言從三位源朝臣宗直監議奉行家達(水野大炊頭、安藤帶刀)とあり、那智山や浜ノ宮の他の建物と共に修復された。
『日本の美術誌』第225号(昭和60年2月発行)に、3神像の写真が掲載され、次の様な記事が載った。
「現在の社殿は慶安元(1647)年の再建と伝えるが、三間に分れて祀られている、祭神は彦火火出見命、大山祇命、天照大神と伝えており、その尊名は何らかの根拠によって近世付されたものであろうが、三体一具同作であり、熊野三所権現とみて間違いない、その形状から、巾子冠を戴く男神像は家津御子、宝冠像は速玉大神、女神像は夫須美神とみてよい」と述べられている。
昭和57年6月5日に国の重要文化財に指定され、昭和62年1月神社庁の認可により、中央神は夫須美神、右側神は家津美御子神、左側神は速玉神となり、神社名は大神社から熊野三所大神社と改名された。
(例祭)
2月13日の宵宮祭には深夜に、6人の射子奉仕者が裸で、社前200m余の海浜まで7度半馳足で往復して潮垢離を取って潔斎し、その夜は篭所に泊り、翌14日の例祭にはお弓行事を行う」
とある。
補陀洛山寺(ふだらくさんじ):
生きたまま浄土を目指して小船で海へ出ていった。
平安時代から千年に渡り、20名以上の上人が記録されたいる。
小船の原寸大の船が飾られている。渡海する上人は仏教徒だが、船の四方に赤い鳥居が設置されている。
神仏混合だったのだ。
那智勝浦町の解説によれば
「紀勢本線JR那智駅から国道を渡ったところに補陀洛山寺があり、渡海上人達をおまつりしております。
那智駅前面に広がる浜の宮海岸は、
平安時代からおよそ千年に渡って南海の果てにあると信じられていた観音浄土を目指して
渡海上人が、釘付けされた船の中に座り補陀落渡海に出発したところでもあります。
御本尊である千手観音は、平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。
千手は、あらゆる衆生を救済しようとする慈悲と力の広大さを表しています。ご尊顔や温雅な表情にも慈徳がうかがえます。
」とある。
写真:
・5時11分の朝日
・5時26分、朝日を受けて輝く那智の海岸。
神武天皇が上陸した浜との言い伝えがある。
・熊野三所大神社。
・拝殿、本殿一体?
・樹齢800年、樟の神木
・補陀洛山寺
・額