DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

答志島散策

2019.10.30(水)

夜、結構西風が強かった。

よなか起きて、擦れ止め板を設置。

朝は良い天気。

東に山があり、朝日が昇るのが遅い。

それと、ヨットが舫うこの岸壁(他も同じだが)は大潮時の満潮には、

水面すれすれとなる。フェンダーを下に設置する必要あり、注意!

和具港では港内徐行の習慣は無いらしく、

狭い港内だけど、最初からスピードを出してます。

6時45分、ようやく山の上に朝日。

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午前中は航海データ作り。

午後、答志島探索に出発。

歴史上、答志島が有名なのは織田水軍の将として、歴史上に名をはせた九鬼嘉隆

首塚と胴塚があることです。

織田水軍の将として、歴史上に名をはせた九鬼嘉隆は、海の浮き城とよばれた鳥羽城を築き上げました。信長とともに戦った嘉隆の歴史上最大の功績は、信長の日本制覇を阻止しようと10年以上も対抗してきた毛利水軍村上水軍)を日本で初めて鉄張の軍船をつくり撃退したことです。信長の死後も秀吉の命を受けて、朝鮮出兵での指揮を務めるなど、戦国時代の日本の歴史と深く関わってきました。しかし、関ヶ原の戦いで、九鬼家の父と子が西軍・東軍に分かれて戦うことになり、負けた西軍についていた父・嘉隆は、答志島で自刃して果てました。嘉隆の首は「我が首は我が鳥羽城が見える場所に」との遺言とおり鳥羽城を見渡せる丘の上に、胴部はその麓に葬られ首塚、胴塚として答志島和具に残されている。

首塚

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囲いの中に自然石

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首塚から眺める。鳥羽城がこの方向かは不明

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胴塚

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刀を洗った血の池

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さらに古く、二つの古墳跡があります。なんでこんなに山奥に墓を作ったか解せない。

岩屋古墳。かなり遠い。山の上。登るのが大変。子供猪が驚いて逃げていきました。

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蟹穴古墳。内容不明

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柿本人麻呂西行の詩碑があります。

万葉集中、人麻呂の読んだ歌の中に答志島が出てくる。

西行は実際、鳥羽から答志島を見て読んだようだ。

西行歌碑

2019.12.27追記

山家集に「伊勢の答志と申す島には、小石の白の限り侍る

浜にて、黒はひとつもまじらず、むかひて菅島と申すは、

黒の限り侍るなり」とあり、続けて

さきしまの 小石の白を高波の 答志の浜に 打ち寄せてける

の歌。

答志島の白い石には気づきませんでした

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人麻呂歌碑

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