DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

サンマリーナ宮崎→油津港

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2006.8.30(水)長いことお世話になったサンマリーナ宮崎を発ち、古い、歴史のある港、油津に移動。12時半ごろ着。簡単にもやい、すぐ食事をし、珈琲を飲んで2時。これからもやいを固める。

夕方、市内をざっと散策。
雨が急に降り出し、雨脚が弱まるのを待つあいだのどが渇いて雨宿りしている店で缶ビールを仕入れ飲む。

夕食は係留した場所の近くにあるレストハーバーという店に行く。洋式の名前だが食事は和風の方が多い。周りに店の無い、かなり辺鄙なところにあるのに客でいっぱいだ。車で来ている。油津では知られた店なのだろう。生ビール中とまぐろの目玉定食1200円を食べる。

となりにある海岸何とかセンターで風呂に入れるか聞くと大丈夫とのことであった。ステンレスの家庭用浴槽。300円。

写真:油津港入口の奇岩

油津の歴史(日南海岸散歩より)
平安時代倭寇
宮崎県の海岸には地形の利によって天然の良港が点在し、平安の頃から大陸との交易の中継港として利用されてきたのだという。油津の港もかつてはそうしたもののひとつだった。大陸の物資によって利益を得ようとする者たちの中には、海賊行為に及ぶものもあった。いわゆる「倭寇」だが、油津の港がそうした倭寇の拠点となった時代もあったという。

油津の呼び名の起こり
「油津」は「吾平津」がなまったものともいい、吾平津神社に祀られる吾平津姫との関連が語られることも多い。他説には荒波の無い穏やかな海面が「油のような」様子であることから「油津」と呼ばれるようになったとも言う。港の東方は尾伏のハナ(現在の大節鼻)が海へ張り出し、天然の防波堤のような役割を持って入江のような地形を作り、油津を良港としている。

江戸時代は飫肥杉を積み出す
江戸時代に入ると幕府が海外との交易を長崎で独占したために、交易中継港としての日向沿岸は急激に寂れていったということだが、時代が安定し、伊東氏が飫肥藩財政の中心として飫肥杉による林業振興を進めるようになると、油津港は木材の積出港として活気を取り戻すことになった。そして1686年(貞享3年)、広渡川河口部と油津港とを繋ぐ堀川運河の開削が完了すると切り出された木材の港への搬出の効率は飛躍的に向上、油津港から「千石船」に積まれて送り出される「弁甲材」は藩財政に大きな富をもたらすことになった。江戸末期には油津港から送り出される物資の三割ほどが「弁甲材」であったという。

明治時代から昭和16年。日本一のまぐろ漁業。現在の町を形作る。
航路基地
時代が明治に入ると油津港と周辺の町は自由経済の繁栄を謳歌した。鉄道が普及する以前には、油津港は関西以東への海路の基地ともなり、港周辺には乗船を待つ人々を受け入れる旅館が数多く建ち並んで賑わったという。
飫肥
飫肥杉の「弁甲材」の産出が最盛期を迎えたのは戦後の昭和20年代であったという。「弁甲材」は造船材として適していたことから大きな需要を生んだものだったが、しかしやがて造船技術の近代化に伴い造船材としての木材の需要が落ちると、当然のように飫肥杉の需要も落ちた。「弁甲材」を筏に組んで堀川運河を曳く「弁甲流し」も、今は観光用のイベントとして細々と伝えられるのみである。
漁業
油津の港が漁港としての形を整えてゆくのは、1902年(明治35年)に制定された漁業法に基づき「油津漁業組合」が設立された頃からだったらしい。1917年(大正6年)には国内で初めて「漁港」の指定を受けたのだという。昭和に入るとクロマグロの水揚げが急増する。1931年(昭和6年)をピークに1941年(昭和16年)頃までマグロの豊漁は続く。世に言う「マグロ景気」である。油津港の岸壁にはマグロの水揚げのための漁船がひしめき、油津の町はこの上ない活況に湧いた。日本のマグロ相場は油津によって決まるとさえ言われ、「マグロ景気」は「油津」の名を全国に知らしめた。しかしやがて第二次世界大戦が始まると漁船の出漁もままならなくなり、漁獲量は激減、「マグロ景気」は終焉を迎えたのだった。
漁業は戦後再び活況を取り戻し、港の施設も整備が続けられたが、1970年代に入って「オイルショック」や二百海里問題といったさまざなな要因によって漁業は低迷の時代を迎えた。低迷を続ける漁獲量がようやく増加に転じる兆しが見え始めるのは時代が昭和から平成へと移ろうとする頃だった。今でも油津の漁業を支えるのはマグロ近海延縄漁とカツオ一本釣りだが、近年は漁獲量も比較的安定し、1993年(平成5年)には油津、鵜戸、大堂津の三漁協が合併して日南市漁業協同組合が発足し、新しい事務所が港の一角に完成、油津の漁業は新しい時代を迎えている。

現在でもなお、油津港は宮崎県南部の海の物流基地として役割を担い、大型船の着岸も可能な埠頭の工事をはじめとした整備が進められ、少しずつその姿を変えつつある。歴史遺産である堀川運河と一体化した親水空間としての整備も重要なものと認識されているようだ。2003年1月には客船「飛鳥」が初入港し、歓迎イベントなどが開催されて賑わったようだ。やがて物流や漁業のみならず、レジャーや観光の拠点としても、宮崎県南部への海の玄関口としても、油津港が新たな役割を果たす日が来ることになるに違いない。