DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

宜野湾マリーナから東京に戻る。

2006.12.28(木)
正月を家で迎えるため、東京に戻った。

21日に沖縄宜野湾を発ち、福岡に向かう。
北九州には、親父の仕事の都合で九州に住んだのを機会にそのまま居ついてしまった2番目の兄が住んでいる。4~5年ぶりに会う。もう80になる。
この兄は若い時は大変な男前で、女に持てた。遊び人であるが、ムーランルージュ辺で名を売った大変な不良でもあった。旧制中学の制服である霜降りの背広姿を写真で見るかぎりは東京の山の手で育った裕福で穏やかな好青年にしか見えない。私は末っ子で、長兄、次兄はズット年上、共に旧制中学である。
九州で結婚し、北九州市役所に定年まで勤め、すっかり九州の人になってしまった。

親父は九州では長岡組という八幡製鉄の仕事をいってに引き受けていた土建会社の重役ではぶりが良かった。長兄は戦前戦中のエリートである東京商船学校出の少尉であった。私の記憶にある最初の家が若松に近い、今も良い住宅街である藤の木にあった。屋根のついた門を入り、石畳を進むと池があり、池の上に太鼓橋がかかっており、その橋を渡って玄関に至る。家は最も典型的な日本式の屋敷で違い棚、床の間、掛け軸、丸窓、欄間の上の書の額等が懐かしく記憶に残っている。
この最初の記憶の家が一番立派で大きかった。私が成長するに家はダンダン小さくなり、ズット先であるがやがて両親は離婚し、3つ上の兄貴とも別れ、私は母親と暮らすことになる。
戦争を経て私のような境遇になっていった家や人が数多かったと思う。

一泊後、22日に東京に戻る。
戻って、すぐいつも行っている銀座の床屋に行く。夏ごろ3ヶ月ぶりにこの店に行ったとき、伸ばしすぎなので旅先の床屋に行った方が良いと言われ、一月に一回の割合で奄美大島久米島で現地の床屋を体験する。奄美の床屋は名人であった。久米島の女の床屋はひどかった。
今、常連である銀座の店は20年ぐらい通っている。その前はやはり20年ぐらい千駄ヶ谷の床屋に行っていた。村上春樹の文章を読んでいるとき、床屋の話が出てきて、引っ越してもズット通っている床屋が私の行っている店とわかり驚く。その店の私の担当で非常に気に入っている人が病気で引退してしまい、しょうがなく探しあてたのがこの銀座の店である。

船で使っていた刃物を砥ぎにだす。
うちは、刃物は日本橋の木屋で買う。包丁等のとぎも木屋に出す。これは母の影響だと思う。
母はタワシから嫁入り道具まで三越という大正から昭和にかけてのある種の婦人を形容するそのままを実行していた人である。木屋はその三越の前にある。
船に乗せていて錆びてしまった包丁、はさみを砥ぎに出す。

いつものギネスバーに早速行く。
東京に戻ったら必ず行かなけりゃ、行きたいなと思っている新宿三越裏のギネス生を飲ませるギネスパブに夕方向かう。
外人の群れをかき分け、いつものようにカウンターの一番左はじに座る。ギネス、キルケニー、ギネス、ギネスとギネス3パイント、キルケニー1パイントをゆっくりしかし立て続けに飲む。いつものパターンだ。

昨日、27日夜、年賀状を書き、今朝投函。