DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

やっと穏やかな晴天

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2018.4.16(月)
ようやっと穏やか晴天。久しぶりの感じだ。
朝食準備中7時。
おみおつけ、サラダは出来上がり、ご飯も今、炊けたところ。
オカズに着手。

DENVERさんが来てくれ、10時頃スタート。
和歌山県三重県奈良県を行ったり来たり、して私の興味ある所へ連れて行ってくれる。

弁慶産屋の楠:
弁慶と言えば田辺と思っていたら、
新宮から熊野川を渡り、三重県側の川沿いに「弁慶産屋の楠」と呼ばれる場所がある。
弁慶が生まれた所との言い伝えがある。

WEBの「み熊野ネット」よりーーーーー

弁慶が生まれたとされる屋敷の庭には大きな楠が生えていました。
その楠は「弁慶産屋の楠」と呼ばれていましたが、1795年(寛政7年)に焼失してしまい、
その後、1854年嘉永7年)にその跡地に石碑が建てられ、弁慶生誕の伝説を伝えてきました。

紀伊風土記』の鮒田村の項には以下のように記されています(現代語訳てつ)。

○産屋楠
村端の川辺にある。高さ13間、周囲9尋。土地の人は弁慶産屋の柱と呼び、
弁慶がこの地で生い立ったという。
その大樹の大きな洞になっていた。
洞の中での火が原因で、枯れたという。惜しむべきことあやだ。寛政7年のことだとか。

平忠度生誕の地:
時は頼朝、義仲の挙兵、源平合戦の最中である。
平氏薩摩守忠度(ただのり)は都落ちするその日、定家の父藤原俊成(しゅんぜい)を尋ねて
一門の運早や尽き候いぬ。ついては生涯の面目、1首でもとれるものならとっていただきたいと、
「千載集」の選者である俊成に願った。
ために、この一巻を持参したと捧げて今はこれまでと落ちて行った。
忠度の歌は世鎮まってのちその集に入れらている。勅勘の身だから読人しらずとなっている。

さざ波や 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな
 
さざなみは志賀の枕詞、志賀の都は天智弘文二帝の都の跡、
ながらの山は比叡山の南の一峰、これに昔ながらをかけた。今に残る(夏彦より)

この、有名な忠度の生誕の地との表示あり。
WEBの「み熊野ネット」よりーーーーー

和歌山県新宮市熊野川町宮井の音川という地が
薩摩守 平忠度(さつまのかみ たいらのただのり:?~1184)の生誕の地だと伝えられています。

平忠度は、平忠盛の六男。清盛の異母弟。
「熊野育ちの大力の早業」と称され、武芸に優れ、また歌道にも優れた武将でした。おK

国道168号沿いに「薩摩守 平忠度 生誕の地」の看板があり、
そのすぐ近く、少し石段を上がった所に石碑が建てられています。

昼も過ぎたので食事。

大丹倉(おおにぐら):
石の巨大岸壁がそびえるのを対岸から眺められる。神域を感じさせる。
この巨大岸壁の上まで是非いきたくなり、車で向かう。
小さな駐車場が車で行ける終点。
歩いて5分ほどで大丹倉の上に立つ。
高倉剣(たかくらつるぎ)大明神参拝。

WEBの「み熊野ネット」よりーーーーー
修験の行場であった大絶壁
和歌山県北山村から三重県御浜町に抜ける県道52号(御浜北山線)を車で北山村から大丹倉に向かいます。
県道52号にある大丹倉撮影ポイントから大丹倉を望む。

大丹倉(熊野市指定文化財 天然記念物)
 
前方の大絶壁が大丹倉である。岩壁の高さは約300mで、流紋岩でできている。
岩肌が赤く見えるのは、岩に含まれる鉄分が風化によって酸化したためである。
「丹」という字は「赤い色」という意味があり、「倉」という字は断崖絶壁の山を表す。
ここからこの名が付いたといわれている。
 
標高488mの頂上からの展望は素晴らしく、頂上の絶景ポインまで徒歩5分のところに駐車場がある。

大丹倉と修験道
 この地方は古代から修験道が盛んであった。
修験道は、山岳地帯で厳しい修行を行って霊験を得ることなどを目的にしている。
熊野の峻険な山地は、修行の場に適し、大丹倉の中腹には行をしたという10畳以上の石畳がある。
 頂上に、高倉剣(たかくらつるぎ)大明神が祀られている。
苔むした自然石が御神体で、その下に河内の国から来た行者が残していったという剣が納められている。
また、天狗様と呼ばれ、修験者で鍛冶でもあった近藤兵衛という武士の屋敷跡(天狗鍛冶跡)も残っている。

 52号線を育生町赤倉まで進み、そこから赤倉林道に入ります。
倉林道に入ってからは、穴山関所跡や丹倉神社を経て約10分で林道終点へ。
終点には広い駐車スペースがあります。

穴山関所跡:
大丹倉行く道の途中に看板があり、車を降りると穴山関所跡とある。
看板だけなので、気付かない。
道の左は崖、右は遙か上まで石の壁。
なるほど、横には逃げられないので、ここを関所にすれば、
通行を全て監視できる。
こんな所に関所を築いたことで、この細い道が重要な街道であったことが解る。
「ここは、木ノ本より一之水峠を越え、赤倉、丹倉を経て本宮に通ずる主要街道」とあり、
この細い道が古来の重要な街道だったのだ。

WEBの「み熊野ネット」よりーーーーー
紀伊風土記』赤倉村の項に
「関所、屋敷跡、丹倉より東六町余、往還筋に穴山と云う切所の石壁あり、
 昔此所に関所を置きしと云い伝ふ」とある。ここは、木ノ本より一之水峠を越え、
 赤倉、丹倉を経て本宮に通ずる主要街道であり、付近には寺の川の心名があることや、丹倉神社もあることなどから、
 関所を設けたものであろう。
 設置年代は不明であるが、中世この付近一帯は西山郷 に属し、
 竹原氏が支配していたことから、竹原氏が設置したものと考えられる。
 高さ三〇メートルの垂直の岩場であり、また、付近の山中に、三日月型の屋敷が残っている。
 記録に残る数少ない関所として威儀がある。

  指定 昭和四十四年七月十七日  熊野市教育委員会

表丹倉(おもてにぐら):
大変だった。トンダ間違いだった。危険だった。
私とDENVERさんは大丹倉の上に立った後、この「表丹倉」を目指す。
本宮へ抜ける街道だと思い込んでしまたたのだ。
登りの細い道を辿り、道無き道をよじ登ったり、
ようやっと、再度尾根道を発見し、進む。
さらにさらに進むと急な絶壁に沿った道も無い道を崖に這う木の根につかまって進む。
さらに危険なところには虎ロープが張ってありつかまり進む。
よおやっと、ようやっと行き止まりとなる。
ここ、表丹倉は街道の途中などでは無く、前方も右手も左手も垂直の巨岩の先端であった。危険!
歩き始めて、1時間ぐらかかった。
全く、山登りの人の道であった。
二人して、慎重に戻る。

大丹倉まで戻り、車で来た道を辿る
丹倉神社に参拝し、今日の散策を終了。

新宮まで戻り、食材仕入れでイオンに寄ってもらう。
港に戻ったのは、19時頃。

DENVERさんありがとうございました。



写真:
・今日の朝食

熊野川を渡った紀宝町のある弁慶産屋の楠跡
・看板
・碑
・説明板

平忠度生誕の地、看板
・碑
・説明碑

・大丹倉
・大丹倉看板
・大丹倉にある看板
・大丹倉にある近藤兵衛を祀った「高倉剱大明神」

・穴山関所跡
・穴山関所跡説明板

・表丹倉指示
・表丹倉に到着、石の岸壁から下界を見渡す