DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

廣田神社参拝

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2019.6.11(火)
廣田神社参拝。式内社、明神大
兵庫県を代表する神社。兵庫県一の古社。

六麓荘町散策後、バスで夙川に戻り、歩いて廣田神社を目指す。
町の人に、行き方を聞きながら進む。
40分近くかかった様に思う。
教えてくれた人が絵地図にある近い道より、大通りを行った方が良い。
解り易いし、参道になっているとのこと、聞いた人は皆親切、丁寧。

大通りに立派な、新しく見える参道が続く。
参道の石造りの説明に、鎮座地は移動してきたことが、書かれている。
神社のパンフレットには将軍吉宗の時代に現在地に遷座したとある。

石の新しい大きな鳥居を潜ると、見たことの無い木製のしめ縄が3本下がっている鳥居へと進む。

拝殿は立派。
何故か女の参拝者が多い。
というより、中年以上の女の人ばかりだ。
長いこと時っと祈っているひともいる。
最近、神社を参拝する女性が増えた。
前は男しかいなかったが。

参拝。

拝殿左手に境内、摂社として、式内社、伊和志豆神社が祭られている。
参拝。

参拝後、御朱印拝受。

廣田神社参拝後、
ニテコ池西岸に鎮座する、式内社名次神社へと歩いて向かう。

廣田神社のWEBでの開設より:
廣田神社の御祭神と御創祀について

御祭神 天照大御神之荒御魂
御脇殿

住吉大神

八幡大神

諏訪建御名方神

高皇産霊神

御主神の御名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
と申し奉り、即ち伊勢の神宮の内宮に御鎮座の天照坐大神の御荒御魂に坐しまし、
神功皇后御征韓の時御霊威を示し給える大神なり。又御脇殿奉祀四社は御主神に尤も縁由深き神々にして
古くは併せて廣田五社と称せり。
廣田神社由緒記より抜粋-

廣田神社の御沿革

廣田神社は、上代から中古にかけて、国家鎮護・天地自然・立身出世・武運長久に御霊験高き神として、
全国的に延喜式内の官幣名神大社として厚遇されました。

 「伊勢大神宮御同体」の兵庫県下第一の御社格御由緒の大社として広く崇敬を集め、
中世には「西宮参拝」と称して国家の神事を司った神祇官
歴代長官や公家・五山の僧侶たちが度々に亙って参詣し、
物語や和歌・今様・漢詩に多々その痕跡を残しています。
大同元年(806)封戸四十一戸、貞観10年(868)従1位昇叙、
延喜年間(901~923)官幣名神大社・相嘗(あいなめ)祈雨の奉幣に列し、
正暦2年(991)19社の一社に加えられ、朝廷 より恒例・臨時の奉幣(ほうべい)枚挙たることが
古記録に残っています。
白河天皇の時代(11世紀末)には、全国神社に冠たる勅祭22社の一社にも県内で唯一社選ばれ、
朝廷・公家の篤い崇敬を受けました。

 武家の崇敬も篤く、源頼朝は元暦元年(1184)平氏の討伐を祈願して
淡路・広田荘を寄進し、豊臣秀頼は慶長9年(1604)大規模な改築を
末社・戎社(現在の西宮戎神社)を含み行い、徳川吉宗は現今の地に遷宮しました。

 明治4年(1871)には兵庫県内で唯一、最高位である官幣大社に列せられました。

 御社殿は、伊勢神宮戦後初の式年遷宮に当たり荒祭宮(あらまつりのみや)旧社殿の譲与を受け、
昭和31~38年(1956~63)に神明造にて造営がなされました。

 平成13年(2001)には御鎮座1800年の喜節を迎え、
天皇陛下よりの御幣帛を奉って式年祭・奉幣奉祝祭を齋行致した廣田神社は、
悠久の歴史と高貴な社格、深遠な由緒を有する、日本全国の10万社を代表する1社です。


神社御創祀の概略について
廣田神社は、神功皇后摂政元年(西暦201年)、国難打破の道を示し、
皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り、軍船の先鋒となり導き、
建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照大御神
御神誨を受けた神功皇后(第14代仲哀天皇のお后・右の出陣図参照)により、
御凱旋の帰途、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に
大御神の『荒魂』を国土の鎮め外難の護りとして鎮め祭ったと、
日本書紀』に記されている兵庫県第一の古社です。


写真:
・参道
・鳥居
・独自な鳥居
・境内
・拝殿
・拝殿

・境内、式内社
 伊和志豆神社
・解説

廣田神社御朱印拝受