DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

勝海舟解難録。諸兵脱営

2023.6.12番外編
勝海舟がいた。このことで私は日本人であることを誇りに思う。
彼は数多くの記録を残している。
その一節、解難録より。
私はこの記録を何十年か前に筆記している。
ふと思い出して勝海舟全集を引っ張り出して間に挟まれた文を見る。
その書かれたレターペーパーにはstrawberry fieldsと印刷されている。
私の数少ない友人の一人、村田東治のものだ。
彼はギャルソンのグラフィックデザインを一手に引き受けていた。
彼と数多くの仕事をやってきた。思い出深い。
勝海舟解難録。諸兵脱営より。

解難録
23諸兵脱営
明治元年戊辰
 二月四日、三番町歩兵屯所に到り、暴動すべからざる旨申し達す。 我、 その趣旨の貫徹せざらん事を 思い、練兵場に整列せしめ、指揮並びに小頭を前列し、円隊となし、 我その中央に在って懇々申し達す 。その他の屯所、また殆んど朝よりタに到りまた夜中に到る。その整列の総員一所千人或いは八百人なり。 この夜、同所伝習隊の兵卒四百名、 脱営して高田馬場に赴き、隊を整え八王子へ走る。 我これを聞いて 単騎追い到る。この夜、微雨暗黒、我が馬上灯燈を乱放、数弾を発す。 雨衣を破り、灯を打たれ、つい にあたらず。 板橋に追って五十名ばかりを説論、引返す。 これ兵隊脱走の始めにして、これより数ヶ所 の兵、脱走を企て、士官もまたこれに組する者多し。
我ひそかに思う。仏教師、我が戦闘を主とせざるを察し、我が士官を激し、その戦の利あるを説き その伎価を尽さしめんとなすによるか。 故をもって予が説に服さざる士官、 勇を鼓し殺伐の気前日に 異なり。
七日、三番町の兵隊五百人ばかり、夜中、他の屯所を向きて放発し、同意を説き脱走す。 我、田安門 外に兵隊二大隊を整列、「去るべき者は去れ、止まる者は止まれ、今ここにて同士討ちし笑を引くなかれ 諸隊、我が指令に不満あるあらば、我一人を銃殺せよ」と。この時我が灯燈を持つ者、胸を貫ぬかれて死 す。また側にある者、弾を受けて倒る。これよりこの隊敢えて動かず、みな恭敬して屯所に入る。 脱走 せし者、先の隊五百名、乱放して千住に向いて走る。 我、他を止め、追わしめず。我、この際幸いにして 弾に当らず。この時即死する三名、疵を蒙むる五名にして止む。この時、陸軍士官の頭分みな到るといえども、屯所に隠れて、敢えて出でず。 
これ我が指揮を悦ばざるか、はた恐怖して然るか。 我、その心 中を解せず。後この脱走の隊兵上[州〕・常〔州〕に走り、〔大鳥圭介〕 以下の手に属し戦闘せし所の兵な り。この脱営後、兵隊の挙動甚だ殺伐、上官の命を聞かず、その戦うべからずという者はみな憎まる。 既にその夜、 武田斐三郎が、 下谷練塀小路の居宅を取り囲めて私殺せんとす。 同人、幸いにして遁れ去 る。これ同氏、職を陸軍製造所に奉じ、その頭たり。無謀の戦、不利を説き、軽挙の為すべからざるを 強論するが故なり。
また撒兵隊中にも、若輩、脱走を企て、上官の勇無きを罵り、その邸宅を襲う。本所の住居、当時、 堺奉行池野勇一郎を襲ってこれを討つ。大平鉱太郎は撤兵頭なり。常に隊中に不満あるか、これもまた 討たる。これを見、これを聞きて、官吏恐怖し、手を措くべきなし。
我が性怯弱、これらを聞いてために毛髪森然、今、我、諸士に忘れ憎まるるその魁たり。途上に弾を 受け、邸宅に覗わる。如何ぞこれを遁るべきや。一旦豁然として悟る所あり。生死人に任せて可なり。 我に防禦あらば、彼は多人数なり。 必らず人を害せんこと多からん。 我、 一士を備えざる時は、討者一 人もって足るべく、討たるる者また一人なりと。これより馬側の士分を廃し、口取一人を供す。かつ示 して曰く。「我討たるれば、汝速かに遁れよ」と。邸宅もまた士分を帰し、無知、事を解せざるの婦女を 役す。 示して曰く。「敵来たるも婦女を害さず、 安心決定しておるべきなり」と。 これより心中快然 挙 止ただ一人、敵に逢えばただその討たるべきを知って、これと力を争わず、 心中甚だ安穏を覚え、恐怖 の念漸く消滅す。実に心中語るべからず、笑うべく、歎くべく、遠く古人の大難に当ってその行為せし 所を察せば、貴ぶべく、 及ぶべからざるを思い、心に愧じて殆んど慚死せんとす。

 

ああ、その偉大なる。

汝、これを読んで思うこと如何なるか。

興味ある方は是非、全集で。勝海舟の全集は二つある。二つともかなり大部。
右は勁草書房版、左は講談社