DONのヨット暮らし

Mais ou sont les neiges d'antan?

鷺浦散策

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

2009.6.17(水)
鷺浦で爽やかで静かなな朝をむかえる。天気は晴れ。ちょっと肌ざむいぐらいだ。海は深い緑色。
今、朝食準備中、5時20分。

朝、食事の後に海岸沿いに散歩していたら、海岸に居た奥さんからどうぞお茶にと言われる。一人だとためらうところだが、今日の診療に来ていた松江のお医者さんと一緒に誘われたので伺う。92才の元船乗りだった元気なおじいさんが家にいて航海について色々話す。頭も話もはっきりしている。大変な話好きらしい。並河万里とも仲が良く、良く話しをしたらしい。お医者さんもうまく話しに乗る。
名物のぶどうやコーヒー、お茶、お菓子をご馳走になる。1時間ぐらいはいたかな。
お医者さんが医院に行く時間になったのでそこでお開き、お医者さんとも握手して別れる。飯島さん、屋号は中村。
午前中はWEBコンテンツ作り。
午後はきのう出雲に案内してくれた杉谷さんが今度は鷺浦の町を案内してくれる。
小学校にも行き校内も見せてくれ、女性の藤原校長にとも少し話す。まだ若いきれいな人だ。松江の人とのこと。うさぎ公園というバンガロー施設、資料館等々を案内してくれ、その後町中に戻って家並みの説明をしてくれる。
案内役の杉谷さんはうさぎ公園の管理組合委員長、農協の代表とかPTAの会長とかこの町のなにしろいろんな代表を務めていた人とわかる。とても明るく元気で気さく且つ上品な所がある。
町内の古い建築物等の説明も皆、杉谷さんの文章だ。
1時過ぎから4時ごろまで車と徒歩で案内していただく。感謝。

きのう夕方船に話掛けて来た人はここの出身だが元本船の船長でいろいろ杉浦の話をしてくれる。
言葉がズーズー弁でこれは北前船が東北から数多く来た為だろうとか京言葉もある。これは京都との行き来のよる。苗字だと同じ家が多く、屋号で皆呼んでいる、江戸時代から良質の銅を産した。その後石膏が主要な算出物の時代もあったとか興味尽きない話がいくらでも出てくる。
賑わい、人で溢れた時代を知っている今生きている人がまだたくさんいるのだ。

写真:
・鷺浦遠望。灯台の下にECHO POINT
・伊奈西波岐神社。参道。
 大社作り。明治の出雲大社遷宮による材により明治に建て直し。
 出雲大社と全く同じミニチュア形。同様のものは12社しかないそうだ。鷺浦でも拍手は4回するそうだ。
・本殿
・説明
・鷺浦の町並み
・港の入口にある小島の神。明日、七類港へ向う朝、撮影。

この泊地はkasayanの航海記に出ていました。
心配はkasayanが書いていたインターネット接続も携帯も使え無いという点です。
kasayan、着いてすぐインターネットをテストしました。
7.2Mbpsで繋がりました。

◆インターネットで紹介されている「鷺浦の郷愁風景」より
島根半島の北岸はその多くの箇所で山地が平地を作らずそのまま日本海に没している。
 出雲大社を訪問した観光客は、神社より車で15分ほどの日御碕を見物し、それで終ってしまうことが多く、この島根半島裏側の漁村は、外来者は釣客くらいで地元以外ほとんど知られていない。
 この鷺浦へは、神社脇から細道を辿り、峠越えをして15分ほどである。しかし半島の裏側という、通過点にもなりにくい環境が、我が国でも貴重といえる漁村風景を残すことになった。
 鷺浦の集落は海沿いに流れこむ川の河口付近に開ける微かな平地にへばりつくように展開している。家並はほぼ山陰地方らしい赤褐色の瓦で被われている。また街路形態も特徴的で、特に町並東部では一本のやや広い道の両側に、奥行30mほどの路地が整然と櫛の歯状に分かれている。路地は山側では袋小路となり、海側も今では車の通る湾沿いの道であるが、かつては直接港となっていたのであろう。
 そして、この小集落に不似合いとも言える古いどっしりした旧家が多く残っているのも特筆に価しよう。漆喰に塗りこめられた町家風の建物が眼につき、二階部分には張瓦、一階は板塀、正面部には格子、時に軒をやや前に出して、漁具を収納する仕組となっているものも見かけた。
 一方で湾奥に位置するこの港は古くは西廻り航路の寄港地ともなっていたことが、町家風の建物が見られることにつながっているだろう。代表的な塩飽屋(屋号)住宅は、塩飽諸島の塩を扱う廻船問屋であった。他にも各民家には屋号が表札とともに掲げてある。但馬屋など地名を由来にしているもの、西浜屋、岩棚など地形に関するもの、姓名をそのまま用いたものなど様々で、それらを瞥見しているだけで興味深い散策となる。漁具などにも屋号で名前が記されていることから、地元では姓でなく屋号で呼ぶのが通常であるらしい。
 路地はひっそりとしており、時折住民の方の独特の出雲弁が聞えるだけである。しかし、今回再訪問してみると、旧家などを案内する表示板が所々に立てられているのを眼にした。以前は全く普段着のままの町並であったのだが、わずかながらも訪問する人が出てきたのかもしれない。
 この漁村風景は外部から保存の手を加えることなく、いつまでも残っていてほしいと願って止まない。
とあります。行ってみたくなるでしょう。
並河万里が杉浦を大変気に入って4~5年住んでいたそうだ。
たぶん一年の半分ほどいたのでは無いかと思う。