有名な航海安全の神、焼火神社へ
2014.7.22(火)
西の島の一番高い山、大山の中腹に有名な航海安全の神社、
焼火神社(たくひじんじゃ)がある。
焼火神社を目指して。
私の場合、ローカルの、日に数本しかない地元のバスで移動するのを趣味にしている。
今回も地元バスを利用しようとしたのだが、時刻表を見ながらどう組み合わせても、
焼火神社へ行くことが出来ない。
ところが、夜中に目が覚めたときもう一度時刻表を見てみると、
経路に鶴丸のすぐそばのバス停が出ているではないか。
このバス時刻表というのが実に解り難い。
インターネットでも観光案内所でも入手できるが、
その書き方が旅行者の為では無く、地元の人の為に作られている。
主要な停留所しか書かれていないので、外部の人には接続関係が解らないのだ。
7時35分。
鶴丸から二つ目の、海岸沿いにある大津が波止(はし)線のスタート駅。
急いで向かう。
やって来たのは普通のバン。車体に小さく西ノ島町と出ていないと乗用車と間違える。
私以外にはもう一人乗る。
動きだして解ったが、鶴丸からひとつ目のバス停の前を通るではないか。
さらに鶴丸の前も通る。
解っていれば鶴丸の前で待っていても良かったのだ。
停留所の時刻表には載っていないので、初めての人はやはり大津まで行った方が良い。
一緒に載った人は途中の何かの施設の前で降りる。通勤客でしょうね。
たった、6分後の7:41に終点の波止につく。
まさか未だ終点とは思っていなかったので座ったままでいると、
終点ですと、運転手。
あの、焼火神社に行きたいのですがと言う。
あ、登り口は過ぎてしまったので、戻る時にそこで止めましょうと言ってくれる。
帰りの車で300m位戻って降ろしてくれる。
車道に「焼火神社」の文字と赤い矢印の看板あり。
山に向かって舗装道路を登り始める。
歩くにはかなり急だ。
左はシダ類が多い岩山、右は絶壁の道が続く。
約50分、8時301分に駐車場に着き、車道はなくなる。
後は山道を登る。
登り口に「マムシニに注意」と赤い文字で大きく書かれた看板がある。
かごの中に長い竹が何本も入っている。
これで道を叩きながら行けと言う意味なんだろ。
私は帰って集中力がそがれるので手ぶらで行く。
いつも、あまり下は見ないで歩くが、慎重に前方地面を見ながら進む。
あと、2回程まむし注意があった。
古びた狛犬と上に登る狭く暗い石段が左に現れる。
自然の山の湧水をが流れ込んでいる苔むした手水もある。
ここなのかなー、と思いながら暗い石段を登る。
上には半分こわれかけた社があった。参拝。
(後で焼火神社の宮司さんに聞いたところ、別所にあった東照宮だそうだ。
江戸時代末期にここに移したとのこと。
戻ってさらに進む。
山道を約30分。焼火神社に到着。
神社の手前に城の様な立派な石垣。
大きな社務所がたっている。
その先、細い道を進み左は岩の壁、
右は絶壁の道がさらに狭くなっていく。
最奥に拝殿が見えてくる。
本殿は左側、拝殿と直角に建っている。
素晴らしい、神域。
本殿は岩の壁の穴になっている所に半分入っている。
美しい本殿だ。右は絶壁。通ることも出来ない。
神社に感心の無い人も是非訪れ見てください。
普通の場所ではありません。
来て良かったと思います。
公式ホームページより
「焼火山(海抜452m)の中腹にある焼火神社は日本海の船人に海上安全の神と崇められている。 旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神事が行われている。以前はその時に隠岐島全体から集って神社の社務所に篭り、神火を拝む風習があった。現在もその名残を留め、旧正月の5日から島前(どうぜん)の各集落が各々日を選んでお参りする「はつまいり」が伝承されている。
例大祭は7月23日・24日の2日間、昔は島前中から集って神輿をかついだが、昭和30年の遷宮を最後に廃止された。
江戸時代には北前船の入港によって、海上安全の神と崇められ日本各地に焼火権現の末社が点在している。安藤広重・葛飾北斎等の版画「諸国百景」では隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。
社殿は享保17年(1732)に改築されたものであり、現在隠岐島の社殿では最も古い建築とされている。当時としては画期的な建築方法で、大阪で作成され地元で組み立てられた(今でいえばプレハブ建築のはしりとでもいおう か)。平成4年には国指定の重要文化財に指定された。城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年篭りの時に千人ほどの参詣人が火を待ちながらたむろしたり、また、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝した折りの記録も残っているが、現在は客殿(きゃくでん)という場所にその名残をとどめている。
山頂付近は焼火山神域植物群として保存され平成五年には神社から頂上まで遊歩道も整備された。10年以上かけて開通した焼火林道は市部(いちぶ)から始まって大山(おおやま)へ至り、平成5年には波止(はし)から焼火参道までは舗装整備されるまでになり波止からは車で5分、そこから徒歩で15分で神社まで到着可能となった。」
行くのには約1時間以上かかったが、帰りは下りで少し短い時間でバスの道まで辿りつく。
帰りのバスは未だ、2時間近く待つことになる。
波止の港をぶらぶらしたりして時間をつぶす。
左の上方に紫いろの大きな旗の上部がはためいているのが見える。
行ってみると石の鳥居。
鳥居には「天保四」と刻まれている。
この後、実に不思議なことが起こるのだ。
写真を撮っているいると丁度、車が止まり、地元の人が降りて来る。
そこでその人に、この鳥居は焼火神社の方を向いているのですか、
ここから焼火神社は見えますかなど質問。
その人の回答が実に詳細で丁寧。
教養ある穏やかな紳士。
隠岐全体および西ノ島の式内社についてもそれぞれ非常に詳しく、言及する。
これ程、式内社が隠岐に多いのはやはり国防という観点からですかねと質問すると、
それが、隠岐の数ある式内社の内で古記録上に国防に着いて言及があるのは一か所のみ。
とのこと。
私もそれを感じる。国防より隠岐の全体が持つ神域感がそうさせたのでないか。
日本書紀などを引き合いに出して説明するので、驚いて、
神官の方ですかと聞くとそうですとの答え。
さらに、もしかして焼火神社の宮司さんですか?
そうです。との答え。
こんな確立があると考えられますか。
これが不思議というものですね。
宮司さんから昔の話しを聞く。
電気が引けたのはNHKだかのアンテナが出来た時。それまでは電気も無かった。
小学校に上がるまでは下に神社から下に降りたことは無かった。
つまり前の宮司さん夫妻は山の中、電気の無いところで神職を行っていたのだ。
私も子供が小学校に上がる時に下に降りて来たとのこと。
モットゆっくり話を聞きたかったがバスを逃すと今度は夕方15:54を、
待つことになるので、断念。もっと話しがしたかった。
11時46分のバスに乗車。
鶴丸前で降ろしてくれる。
艇に戻って、12時。すぐ昼食を取ることが出来た。
写真:
・バス道から神社に向かう看板
・シダル類が多い
・左は岩の壁。右は絶壁
・マムシに注意
・本殿は岩の中に半分は行っている
・本殿の屋根前方
・扁額 仏教の名残
西の島の一番高い山、大山の中腹に有名な航海安全の神社、
焼火神社(たくひじんじゃ)がある。
焼火神社を目指して。
私の場合、ローカルの、日に数本しかない地元のバスで移動するのを趣味にしている。
今回も地元バスを利用しようとしたのだが、時刻表を見ながらどう組み合わせても、
焼火神社へ行くことが出来ない。
ところが、夜中に目が覚めたときもう一度時刻表を見てみると、
経路に鶴丸のすぐそばのバス停が出ているではないか。
このバス時刻表というのが実に解り難い。
インターネットでも観光案内所でも入手できるが、
その書き方が旅行者の為では無く、地元の人の為に作られている。
主要な停留所しか書かれていないので、外部の人には接続関係が解らないのだ。
7時35分。
鶴丸から二つ目の、海岸沿いにある大津が波止(はし)線のスタート駅。
急いで向かう。
やって来たのは普通のバン。車体に小さく西ノ島町と出ていないと乗用車と間違える。
私以外にはもう一人乗る。
動きだして解ったが、鶴丸からひとつ目のバス停の前を通るではないか。
さらに鶴丸の前も通る。
解っていれば鶴丸の前で待っていても良かったのだ。
停留所の時刻表には載っていないので、初めての人はやはり大津まで行った方が良い。
一緒に載った人は途中の何かの施設の前で降りる。通勤客でしょうね。
たった、6分後の7:41に終点の波止につく。
まさか未だ終点とは思っていなかったので座ったままでいると、
終点ですと、運転手。
あの、焼火神社に行きたいのですがと言う。
あ、登り口は過ぎてしまったので、戻る時にそこで止めましょうと言ってくれる。
帰りの車で300m位戻って降ろしてくれる。
車道に「焼火神社」の文字と赤い矢印の看板あり。
山に向かって舗装道路を登り始める。
歩くにはかなり急だ。
左はシダ類が多い岩山、右は絶壁の道が続く。
約50分、8時301分に駐車場に着き、車道はなくなる。
後は山道を登る。
登り口に「マムシニに注意」と赤い文字で大きく書かれた看板がある。
かごの中に長い竹が何本も入っている。
これで道を叩きながら行けと言う意味なんだろ。
私は帰って集中力がそがれるので手ぶらで行く。
いつも、あまり下は見ないで歩くが、慎重に前方地面を見ながら進む。
あと、2回程まむし注意があった。
古びた狛犬と上に登る狭く暗い石段が左に現れる。
自然の山の湧水をが流れ込んでいる苔むした手水もある。
ここなのかなー、と思いながら暗い石段を登る。
上には半分こわれかけた社があった。参拝。
(後で焼火神社の宮司さんに聞いたところ、別所にあった東照宮だそうだ。
江戸時代末期にここに移したとのこと。
戻ってさらに進む。
山道を約30分。焼火神社に到着。
神社の手前に城の様な立派な石垣。
大きな社務所がたっている。
その先、細い道を進み左は岩の壁、
右は絶壁の道がさらに狭くなっていく。
最奥に拝殿が見えてくる。
本殿は左側、拝殿と直角に建っている。
素晴らしい、神域。
本殿は岩の壁の穴になっている所に半分入っている。
美しい本殿だ。右は絶壁。通ることも出来ない。
神社に感心の無い人も是非訪れ見てください。
普通の場所ではありません。
来て良かったと思います。
公式ホームページより
「焼火山(海抜452m)の中腹にある焼火神社は日本海の船人に海上安全の神と崇められている。 旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神事が行われている。以前はその時に隠岐島全体から集って神社の社務所に篭り、神火を拝む風習があった。現在もその名残を留め、旧正月の5日から島前(どうぜん)の各集落が各々日を選んでお参りする「はつまいり」が伝承されている。
例大祭は7月23日・24日の2日間、昔は島前中から集って神輿をかついだが、昭和30年の遷宮を最後に廃止された。
江戸時代には北前船の入港によって、海上安全の神と崇められ日本各地に焼火権現の末社が点在している。安藤広重・葛飾北斎等の版画「諸国百景」では隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。
社殿は享保17年(1732)に改築されたものであり、現在隠岐島の社殿では最も古い建築とされている。当時としては画期的な建築方法で、大阪で作成され地元で組み立てられた(今でいえばプレハブ建築のはしりとでもいおう か)。平成4年には国指定の重要文化財に指定された。城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年篭りの時に千人ほどの参詣人が火を待ちながらたむろしたり、また、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝した折りの記録も残っているが、現在は客殿(きゃくでん)という場所にその名残をとどめている。
山頂付近は焼火山神域植物群として保存され平成五年には神社から頂上まで遊歩道も整備された。10年以上かけて開通した焼火林道は市部(いちぶ)から始まって大山(おおやま)へ至り、平成5年には波止(はし)から焼火参道までは舗装整備されるまでになり波止からは車で5分、そこから徒歩で15分で神社まで到着可能となった。」
行くのには約1時間以上かかったが、帰りは下りで少し短い時間でバスの道まで辿りつく。
帰りのバスは未だ、2時間近く待つことになる。
波止の港をぶらぶらしたりして時間をつぶす。
左の上方に紫いろの大きな旗の上部がはためいているのが見える。
行ってみると石の鳥居。
鳥居には「天保四」と刻まれている。
この後、実に不思議なことが起こるのだ。
写真を撮っているいると丁度、車が止まり、地元の人が降りて来る。
そこでその人に、この鳥居は焼火神社の方を向いているのですか、
ここから焼火神社は見えますかなど質問。
その人の回答が実に詳細で丁寧。
教養ある穏やかな紳士。
隠岐全体および西ノ島の式内社についてもそれぞれ非常に詳しく、言及する。
これ程、式内社が隠岐に多いのはやはり国防という観点からですかねと質問すると、
それが、隠岐の数ある式内社の内で古記録上に国防に着いて言及があるのは一か所のみ。
とのこと。
私もそれを感じる。国防より隠岐の全体が持つ神域感がそうさせたのでないか。
日本書紀などを引き合いに出して説明するので、驚いて、
神官の方ですかと聞くとそうですとの答え。
さらに、もしかして焼火神社の宮司さんですか?
そうです。との答え。
こんな確立があると考えられますか。
これが不思議というものですね。
宮司さんから昔の話しを聞く。
電気が引けたのはNHKだかのアンテナが出来た時。それまでは電気も無かった。
小学校に上がるまでは下に神社から下に降りたことは無かった。
つまり前の宮司さん夫妻は山の中、電気の無いところで神職を行っていたのだ。
私も子供が小学校に上がる時に下に降りて来たとのこと。
モットゆっくり話を聞きたかったがバスを逃すと今度は夕方15:54を、
待つことになるので、断念。もっと話しがしたかった。
11時46分のバスに乗車。
鶴丸前で降ろしてくれる。
艇に戻って、12時。すぐ昼食を取ることが出来た。
写真:
・バス道から神社に向かう看板
・シダル類が多い
・左は岩の壁。右は絶壁
・マムシに注意
・本殿は岩の中に半分は行っている
・本殿の屋根前方
・扁額 仏教の名残