2016.7.6(水)
和歌の浦とは大変な所でした。
毎日、気持ち良かったのも当然。
万葉の時代から和歌の浦は歌に読まれ、いろいろな天皇が和歌の浦を訪れ愛でているのです。
奈良時代、神亀元年(724年)行幸した聖武天皇が、和歌の浦の景観に感動し荒穢させることのないようにと詔を発しました。
和歌山県教育委員会学術報告書より
この報告書は詳細かつ冷静で非常に良く出来てます
和歌の浦学術報告書
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/houkokusho/wakanouragakujyutuhoukoku.pdf
「 神亀元年(724)10月8日、聖武天皇は、紀伊国に行幸する。玉津島に到着し、その後14
日間滞在する。12日には「岡の東」に「離宮」を造営し、そして16日に天皇は次のような詔
を出す。
山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足れり。故
に「 弱 浜 」の名を改めて「 明光浦 」とし、宜しく守戸を置きて 荒穢 せしむことなかれ。
わか はま あかのうら こうわい
春秋二時に官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せしめよ。(『続日本記』)
同行した宮廷歌人山部赤人は、長歌一首反歌二首からなる玉津島賛歌を詠む。
神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸す時に山部宿彌赤人の作る歌一首併せて短歌
やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島
清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然そ貴き 玉津
島山(万葉集 巻6・917)
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反歌二首
沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも(万葉集 巻6・918)
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 芦辺をさして 鶴鳴き渡る(万葉集巻6・919番)」
平安時代、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなりました。
景勝の地として、また歌枕の地として有名となる。
江戸時代に入ると、和歌山は徳川家康の10男、徳川頼宣が藩主となる。
徳川頼宣は和歌の浦の地にいろいろな施策を行う。
芭蕉もこの地を訪れ、し「行く春を和歌の浦にて追いつきたり」を残す
○和歌の浦の名所
紀三井寺:
和歌の浦の中では無い。歩いても行けるが、私は一旦バスで和歌山駅に出てJ
Rきのくに線、一つ目の駅、紀三井寺で降り、歩いて10分程で山門。
あと、かなりの急段かつ長い石段を登る。
建築物は国の重要文化財に指定されているほど古いのだが、みな赤く塗り直してあり、新しい様にみえる。
歴代紀伊徳川家藩主がその繁栄を願ってお参りしたとある。
本殿は巨大な木造建築。写真。
和歌浦天満宮:
菅原道真を祭っている。
大宰府天満宮、北野天満宮とともに、三菅廟と呼ばれる。
菅原道真が九州への途中で和歌の浦に寄ったことに因み、この地に祭られたた。
現在の社殿の建築にあたったのは紀州根来出身の平内吉政・政信親子。
後に政信は江戸幕府の作事方大棟梁になった当代屈指の工匠です。
楼門は一間楼門として最大規模。本殿は国重要文化財で、内外部ともに美しい極彩色が施されています。
和歌の浦フィッシャリーナから歩いて10分ほど。
ただし、ついたところで、大変な石の急階段を登ります。それも長い。
楼門に立つと和歌の浦の見事な景観が眼下に広がります。
紀州東照宮:
和歌の浦天満宮のすぐそば、和歌の浦フィッシャリーナからやはり10分ほどで行ける。
ただし、ここも長い、大変な急石段を登った上にある。
左甚五郎の彫刻を多数見ることができます。
500円で巫女さんが内部へ誘導し、説明してくれます。是非参加を。
写真
・石段
・御朱印
玉津島神社:
和歌の神社として高名
塩竃神社:玉島神社のすぐそば
両神社とも和歌の浦フィッシャリーナから歩いて行ける。
多宝塔:
海に浮かぶ小島、妹背山に家康の10男、頼宣が母の為に建てた。
妹背山に渡る橋:
不老橋:
塔下から南無妙法蓮華経と書かれた経石が15万個以上発見されたそうです
結局、今日も良く歩いた。
特に、陶器の大皿と安かった桃4個も持ってアチコチ行くのは足が丈夫でないと無理でしょう。